げーと・おぶ・ほかろん

GallのFGOブログです。英雄王とぐだ男の世界を救う大冒険

「(虐殺の)王の話をするとしよう」(映画評)

虐殺の王の話をするとしよう

 

星の内海、物見の台

楽園の端から君に聞かせよう

 

このブログにはネタバレが満ちていると

 

不満無き者のみ通るがいい

 

がーでん・おぶ・ほかろん!

 

*****

忠告はした。

 

本題に入ろう。

 

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劇場版見てきました。

今回はその感想と、私なりの映画評です。

 

故にがっつりネタバレ含みます。

原作的な意味でも、劇場版的な意味でも

 

***

 

まず第一に、全体な感想としては「物足りない」と感じました。

「つまらない」ではなく、「物足りない」ということです。

 

やはりアニメ映画の限界というか、「尺」という制約がある以上、原作通りの重厚感を出すのは厳しいなと思いました。

 

反面、むしろこの短い尺でよくまとめたなぁ、と感心してもいます。

私も論文を書いた際にこの作品を要約したことがあるので、劇場版のストーリーの構成力は非常に優れていると感じます。

 

プラスかマイナスかでいえば、私としてはマイナスですが。

まぁその辺はおいおい書きます。

 

 

劇場版をのストーリーをまとめるとこんな感じでしたね、というのを

 

サラエボの核テロ事件からスタート

物語のラストシーン

メインタイトル

原作1章4節付近から本編開始

ほぼ原作通り、一部カット・改変されつつストーリー進行

インド編~アフリカ編

ジョンをクラヴィスが銃殺

ラヴィスの告発で終了

(ここまで「死者の国」)無し

 

こんな感じでしたね。

 

本編の改変については、「『死者の国』のエッセンスを排除して物語を再構築するならばこうなる」といった内容。

むしろその要素が入ると120分には到底収まりませんからね 笑

そこが物足りないと感じつつも、しかし上手いな、と感じた点でした。

 

上手い本編の改変としては、他にもインドでの容疑者確保のから搬送のシーン。

原作ではあれ、民間の電車で運送してたのを、劇場版ではそのまま航空輸送してるんですよね。

これによって

「電車に群がる多数の人々」

「電車の横転で大量に発生する死者の肉塊」

と言った要素を排除することに成功しています。

アニメーションとしてのコスト削減としては適切、且つうまい手法だな、と思いました。

(でも「横転したカーゴで…」ってほぼ原作通りリーランドに言わせる必要あったのかなアレ)

 

あとはユージーン・クルップス(以下EC社)の立ち位置の表現もうまかったですね。

原作ではEC社エリカ・セイルズはクラヴィスやウィリアムズが同席する会議で登場しますが、劇場版では会議室で入れ替わりになります。

要は会議シーンがほぼカットされるわけですね。特に「戦争を民間に委託している」という設定部分の説明パートを後回しにしつつ簡素化しているわけです。

 

そしてインドの戦場で再登場するEC社の兵士。

原作では現地での交流も描かれていますが劇場版では長いので当然カット。

情報軍i分遣隊とEC社はほぼ完全に交わることなく描かれています。

これによって、EC社が明確な敵であること、またジョンの内通者である院内総務が悪役であることなどが劇中で明確化されています。

初見の人の方が多いと思われる劇場版における演出としては、非常に分かり易く再構成されていると感じました。

 

 

キャラクターについては、特に石川界斗君の演じるリーランドがよかったですね。

身体が「フレ/ンダ」式に真っ二つになっても感情適応調整のおかげで全く意に介さないあたりの演技が絶妙でした。

初見の方は「まさか体が真っ二つのままあの会話をしていたなんて…」と思ったのでは?

 

ラヴィスについては「普通に」良かったと思います。

言いたかったことが大体書いてあるので、パンフ買って中村悠一さんのコメントを読んで欲しいなって思います

っていうか、「死者の国」要素のないクラヴィスはこんな感じなのかぁ…と、新鮮な気持ちで見ていましたね 笑

 

 

櫻井孝宏さんが演じるジョン・ポールについては、「声はイメージ通り」「演出はイメージと全然違ってガッカリ」という感じでした。

っていうか、原作読んだ時点でこのキャスティングは予想できましたよね 笑

 

ジョンは決して「狂気のヒト」ではなく、むしろ「極めて穏やかな人間」という勝手なイメージがあったのですが、櫻井さんの演技はそこにぴったり嵌る演技で、非常によかったと思います。

 

パンフでご本人が言及している通り、「PCYCHO-PASS」の槙島聖護と比べられることになるであろうこのキャラですが、はっきり言って私は「完全に分けて考えるべき存在」だと思っています。

まぁ、ミステリアスな知性を秘めている点や「構ってちゃん要素」はそっくりですけど 笑

 

槙島はどこか浮世離れしたオーラを漂わせてはいますが、ジョンはかなり人間臭い存在なのです。

作中でジョンが拘束されたクラヴィスに「君に一つの文法を仕込んだ」って言うシーン、あったじゃないですか。あのシーンの演出、確かに分かり易いんだけどジョンがかなり「超能力者」っぽというか、人間離れした存在みたいに描かれてしまっていて、正直そこはマイナスポイントでしたね。

 

むしろジョン・ポールは「偶然」虐殺の文法を発見した「普通の人間」であるからこそ『虐殺器官』という作品は成り立つのです。少なくとも原作は。

劇場版は逆に「異質さ」を出すことで話を纏めていたのかもしれません。

だから私には合わなかったのかも

 

小林沙苗さん演じるルツィアは、原作よりバブみが増した半面クズさが際立ったような気がします 笑

原作では「カフカの墓に行きたい」っていうのはクラヴィスの方ですよね。

それも、完全にルツィアとデートしたいっていう出来心で

それが劇場版では、ルツィアから誘い出し、そして(半ば強引に)バーまで連れて行く。それも「指示されたから」と

 

原作におけるルツィアの立ち位置は「ジョンの考えに対する世間一般の意見の代表者」みたいな感じで書かれてる、と(誰が言っていたか忘れましたが)言われていて、それが劇場版では「ルツィアの思いを尊重してその意思をクラヴィスが遂げる」という感じで終わってましたね。

正に大衆向け作品という訳です。

その方が一般人は納得するんでしょうかね…

 

 

っていうか、私が気に入らないのはそのエンディングですね、ええ

「死者の国」の描写がないのは寧ろいいんですよ。

それはそれでうまく再構築できていたので。

なんでエンディングで「ルツィアの意思」をゴールにしちゃったんだろってなりましたね、ええ。

 

原作だとクラヴィスがアメリカに「虐殺の文法」をばらまいて「ここ以外の場所は静かだろうな」と、背徳的ともいえるカタルシスを迎えるわけですね。

このシーンについては非常に考えることがあるのですが劇場版とは関係ないので省きます。

とにかく、このラストシーンが一番好きなのにそれがない。

 

ただ、クラヴィスはジョンをしとめた後にアメリカで「虐殺の文法」を研究しているような描写があって、そのシーンで流れるテレビでの演説も、正しく「虐殺の文法」に汚染された演説だったようにも感じられました。

とすると、「原作ファンはわかると思うけどこの後アメリカ滅ぶよ(笑)」というのを暗に示唆していたのかな、と言うようにも解釈できました。

まぁ、直接「アメリカ滅亡」を直で描いちゃうよりは「実は描いてるけど分かる人だけほくそ笑んでねwww」みたいにしてくれた方が確かによかったのかもしれませんね。

 

というポジティブな解釈を便宜上しておきますが、伊藤計劃のエッセー「人という物語」からあからさまに持ってきた「これは、ぼくの物語だ」っていう〆方してる当たりそんな意思ないんだろうなぁと思ってます。

「ぼくは(ルツィアとの)約束を果たした」って辺りでもうダメでしょうね。

原作だとクラヴィスの「虐殺の文法」は彼を逮捕する前にアメリカを飲み込んだわけですから。

 

まぁそんな感じで、エンディングは納得いかんなぁといった感じです。

そしてそのエンディングから逆算すれば合理的な改変だが、しかしやっぱり気に食わないのがジョン・ポールをクラヴィス自ら殺すシーンとウィリアムズが「敵に」爆殺されるシーン。

原作だと、ジョンを逃がすためにクラヴィスはウィリアムズごと部屋を爆砕、そして逃走中に同僚がジョンを射殺するわけです。

そして「ウィリアムズはどうなった?」というセリフが出るわけですね。

同じセリフでも、プロセスが違うため劇場版だと「ただ心配してるだけ」みたいになってますよねアレ

 

そもそもこれはクラヴィスが徐々にジョンに同調していく(というよりは潜在的にジョンに近かった、ということが顕在する)物語なのに、思いっきり真逆をいってますよね。

っていうか何でクラヴィスにジョンを殺させたんですかね。

ジョン・ポールを「分かり易い悪役」にするためだったんですかね。

まあ、手法としては素晴らしいと思います。

原作知っちゃうとこれが非常につまらないだけで。

 

でも、ルツィアが死ぬ直前に光学迷彩で隠れたウィリアムズの姿が一瞬部屋の入口に見えるの、私は見逃しませんでしたよ(だってわかってたしwww)

 

 

私個人の解釈として、原作は「クラヴィスとジョンは対極の存在」(だから「同じ手法」で「アメリカorアメリカの敵」という真逆の存在に「虐殺の文法」を振りまいた)でありながらも、対極故に惹かれ合い、クラヴィスの内に秘めた「死者の国」が顕在化してラストに至る、といったストーリーであると考えていたので、そこら辺と全然ン違う解釈なのだなぁ、と思いました。

何度も言いますが「個人的に」内容が合わなかっただけで、たぶん原作を知らなかったら普通に「めっちゃ面白かった!」って言ってそうな内容だと思います。

 

 

*****

うへ、そろそろ4000字だw思わず書きすぎてしまいました。

まぁ書きたいことは一通り書きましたが

あくまで個人の感想です

異論反論あると思いますが私はこんな感じに思ったよ、と言うだけのこと。

 

だから私に同意しろとは言いませんし、悪い映画だったとも言いません。

 

原作を知らないほうが「楽しめる」

原作知ってると「分かる」

原作を熟知していると「物足りない」

 

そんな映画だったかな?と思います。

 

 

映画だけ見て「面白いかも?」と思った方はぜひ、原作を読んでいただきたい。

 

普段積極的に文字読まない私がオススメするので間違いはないんじゃないかと(結局価値観押し付けブーメラン奴)

 

*****

【追記】

書き忘れてました。

 

 ***

伊藤計劃記録Ⅱ』(早川書房)の「伊藤計劃インタビュー」より

SFマガジン〉2009年2月号での佐々木敦氏の伊藤計劃へのインタビューの記事から抜粋

 

佐々木:僕は最初に「ロジカル」と言ったんですけど(中略)そういう感じがすごく強いなぁと思うんですよ。

伊藤僕は理屈人間なので、理屈でしか考えられない(笑)。

 

佐々木:それでいて登場人物のキャラクタらいゼーションというか、情動みたいな部分もちゃんと感じられる。つまりロジックの一方にエモーションもある。ロジックとエモーションっていうのが、必ずしも個別に存在するものではないっていうことも、『虐殺器官』以来の伊藤さんの一貫したテーマじゃないですか。

伊藤:そうですね。ロジックだけだと色気がない(笑)。色気がない小説はあんまり面白くないので、さすがに読むのきついですし(笑)。(中略)エモーショナルな部分に訴えて、そこからロジックな世界に引っ張っていきたいっていうのはあります。

 

佐々木:今回(=『ハーモニー』)もある種ミステリ的と言ってもいいプロットになっていて、リーダビリティは抜群ですね。物語として非常に楽しんでしまえるんだけれど、実はその背後に極めてきちっとした推論の世界がある。

伊藤:確かに、自分は推論を立ててから書き始めます。だから、実を言うとエモーションの部分が一番難しいんです。(中略)どうにかしてエモーションで肉付けをしなきゃいけないんですけど、そこが一番つらいところですね。

 ***

 

この話題、本当はこの先もう少しあるんですが長いので抜粋はここまでで。

 

何が言いたいのかというと、劇場版の『虐殺器官』は、この「エモーションの肉付け」については非常に成功している作品である、ということです。

 

だからこそ、「アニメ映画」としては非常に素晴らしいものではないか、と私は(Twitterで)言っていたわけですね。

 

以上、こういった背景を踏まえた上での感想だよ、アピールでした 笑

*****

それではこの辺で。